ぶたやかん、さようなら

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写真が見苦しくてすいません。
愛用していたぶたやかんの内部が錆びてしまい、茶色い湯が出てきちゃったんで、急遽新しいやかんを買ってきた。

思い返せば、このやかんは夫の妹さんから5年前くらいの誕生日にもらったもので、それから毎日2、3回これでお湯を沸かしてきた。

本当は鼻(お湯の注ぎ口)にプラスチックの笛がついていて、お湯が沸くと「ぼぉーー…」というオーケストラのチューニングのような音が出ていたのだが、1ヶ月くらい?で夫が焦がして溶けたのでそこだけ捨てた。

そんなトラブルにも耐え、よくぞここまでがんばってくれたものだ。
敬意を表して写真をアップすることにした。

電子ケトルにすることも考えたが、とりあえず近場でぱっと新しいのを買ってきてしまった。

ありがとう、ぶたやかん。君のことは忘れない。

子供を産むということについて思うこと・1

昨日、FacebookとTwitterにこんな投稿をした。
https://www.facebook.com/achaz.kato/posts/459719834071132

別 に誰も明示的にそうとは言わないし、もちろん言われたこともないんだけど、今の日本で子育てしてるとたまに感じる「あーあ、子供作っちゃったの?困る なー。自分できちんと面倒みるなら仕方ないけど、社会とか仕事とかに迷惑かけないでよ?」みたいな空気が、少子化の大きな要因な気がする。

これもうちょっと書くと、なんか、子供の認識がペット化し、ペットの認識が子供化しているような気がするのである。

要因として思うのは

  1. 子供に対する費用対効果が下がって(リスクが喧伝され、老いたとき面倒は見てもらわないのが普通ということになって)子供を持つということの資産的価値が下がったこと
  2. 避妊と中絶が「理性的に判断して行われるべきもの」という扱いになって、同時に「自己責任」の考え方が普及して、子供を産むのは「個人の判断」によって行われ「個人の責任」で育てるべきもの、という考え方に辿りついてしまっていること

というあたりである。

子供を産んでも、大人になってから困らないように育てるのには莫大な教育費がかかり、大人になってから困るような育て方をしたら子供にも社会にも罵られ、そして大人になったら親は子供に面倒を見てもらわないでむしろ孫の面倒を見るのが普通、となったら、合理的選択をしたら産まないのが普通なんである。
そこを今支えてるのが「そうはいっても子供がいないとさびしい」「子供はかわいい」「思い出になる」とかって考え方だ。
それは、ペットと何の違いがあるのか。
ていうか、それだけならペットを飼えばいいじゃないか。
子供を産むなんて、自分と子供をリスクにさらす選択をする必要はまったくない。

昔は、個人に対しても、子供にもっと高い資産的価値があった。
(そして実は、子供の資産的価値は社会に対しては今も変わらない。)
でもそれだけじゃなくて、個人の考え方に影響してるのはむしろ2.のほうだと思う。

結論から書こう。
私が思うに、「子供を産むべきか」というのは本来、「考えるようなことじゃない」のだ。
「子供を産むべきか」は、個人で判断して計画して決定して、責任を負うようなことじゃないのだ。
子供は、できたら産むもの。そして、責任は社会全体でとるものだ。
まあ、今はそうなってないわけだから、現実に今の日本では、考えて責任を取る覚悟をして産む必要があるんだけどね。

私は個人的には、中絶が絶対だめだとは思っていないが、「子供が大きくなるまで、死ぬまで、困らせないことができないと思うから産まない」なんていう重たい判断をして中絶しなければいけない、というようなことは減らさなくてはいけないのではないか。

ペットを飼うのは、個人の判断によって行われて、自己責任で、飼い始めたからには責任をとらなきゃいけない。
そりゃ、10年とか長いさ。でも10年、しかもペットを育てる費用や環境は、まだ予測がつく。たとえば猫1匹ならどんな環境に住居が変化しても一緒に住める。えさ代だって、きっと出せる。
ペットだったら飼えなくなったら他の人に渡すということだってできる。
それを子供で同じように考えたらどうだ?それも最低20年、下手すると一生?
真に責任を取れると言える人なんて誰もいなくなるに決まってるよ。

バックにある考え方がこうなってたら、ペットのとらえ方と子供のとらえ方が均質化してくるのは当たり前だ。でもペットと子供は違う。絶対違うのだ。そこにはむしろ、理由はない。
理由なんか考えるから、それと同等の条件になったときに違いを見失うのだ。
ペットと子供は、とにかく違うのだ。

核家族化の選択、家業の廃絶、地域コミュニティの崩壊、中絶技術の確立、貞操観念の崩壊、と、日本は(世界も?)かつて保持していた「子供を適切なときに産み、みんなで育てる」というシステムをすべてぶっ壊してきた。
私はそれを悪いとはあまり思っていないけれど、社会にとって子供が必要なのは自明なのだから、新しいシステム(思想)を構築すべきだ。
社会にとって必要で個人にとってそれほど必要でないものを支えるのは、倫理とか、道徳とか、空気だと思う。そこからシステムが作られるのだ。
まずは「子供を産むかどうかは個人の自己責任」という考え方を変えなくてはいけないと思う。

今はまだいいのだ。なぜなら、過分に稼いだ親世代がいるから。
今の30代は親と良好な関係でさえいれば、親に助けてもらってあと10年は育てられるんじゃないか。
しかし私たちの子供世代となってくると、かなり絶望的である。

個人的な考えとしては、こういう(自己責任とかの)考え方を普及させた今60歳くらいの人たちがいると思っていて、責任とって何か言い残していきなよ、と思うが、あまりそれに関する話は聞いたことがない。
「間違っていました」「そこまで考えていませんでした」とか、ちゃんと言ってほしい。

道路と長ねぎ

いつかやる気がしていたが、さっき保育園送りの帰りにマックスバリュに寄って買い物して自転車で帰っていたら、長ねぎを落とした。幸い、5メートルくらい走って気がついて戻った。

道路に長ねぎが落ちているのは思った以上にシュールなことを知った。

調理パンとかだと比較的不自然じゃないのだろうか。
湯気をたててるものだといやそうだな。ラーメンとか。